みなさま、2009年の年明けはいかがお過ごしでしょうか〜?
今年も、chocolat's Slow Lifeをどうぞよろしくお願い致します。

2009年最初の
【chocolat's Slow Life】第 19回目は、横浜レポートです。

《文明開化の香りがする街 横浜》
 

ハマっ子を自認する私、港町ヨコハマは本当に大好きな街です。
今年は、横浜が開港して150年という節目の年。様々なイベントも企画されています。

横浜が開港するきっかけとなったのは日米修好通商条約ですが、実は開港地は神奈川の予定でした。
しかし、東海道沿いに位置する神奈川を開港すると、外国人との間にトラブルの発生する恐れがあった為、横浜に変更され、そして1859年、開港に至りました。


■横浜開港150周年イベント「開国・開港Y150」■

メインとなる会場は「ベイサイドエリア」と呼ばれる、みなとみらい地区で、その内容は、
飲食、ショッピング、大型シアター、体験型展示、数々のイベントなどで構成されています。

エリア別に見てみると

「マザーポートエリア」

・横浜駅周辺、山下・山手地区
・横浜スタンプラリーの実施
・横浜回遊ルートマップの配布

「ヒルサイドエリア」

・横浜動物の森公園(よこはま動物園ズーラシア近く)
・Y150つながりの森の創造
・横浜の自然が堪能できる

などなど・・・・・
イベントの詳細はコチラで。

そんな横浜の中で、歴史にちなんだ場所を散策してみました。まず向かったのは桜木町駅。
駅前に最初の鉄道に使われた、双頭レールを利用して作られた記念碑が建っています。
 

1872年(明治5年)5月7日、横浜—品川間を初めてテスト営業として鉄道が走り、4ヵ月後、区間が新橋まで延長され、9月12日、横浜—新橋間での本営業となりました。
これが日本における鉄道の始まりです。当時は1日9往復で、運転時間は53分。最初の横浜駅のあった場所は現在のJR桜木町駅であったことから、この記念碑がここに建てられています。
もしも馬車でこの区間を走ったとすると、4時間はかかった時代だったそうなので、この53分というのは当時の人にとっては驚異的な速さだったのでしょうね。

横浜、といえば<ガス灯>を思い浮かべる方も多いかと思いますが(日本で最初のガス灯の碑は、関内・馬車道通りに建立されています。そこには、当時のままに復元されたガス灯も建っています。)
そのガス灯の元となるガス事業発祥の地もまた、ここ横浜です。
桜木町駅からほど近い、野毛ちかみち通り 「本町小学校」前に、文化財として1本のガス灯が残されており、そばには「日本最初のガス会社跡」の記念碑があります。

高島易断で有名な高島嘉右衛門は、フランス人技師アンリ・プレグランを招いて、1870年に伊勢山下石炭蔵跡(現在の花咲町にある本町小学校)で工場設立をすすめ、1872年の9月に完成しました。
同月の29日には、大江橋から馬車道、本町通にかけて日本で最初のガス灯が点火されました。872年(明治5年)9月、大江橋より馬車道、本町通りにかけて日本初のガス灯がともり、その美しさは、火をともした瞬間と、小雨が降っている時が最もきれいだったと言われています。
今は、電気の明るさに慣れてしまい、暗い夜をほとんど体験しない私達ですが、当時のことを思うと、ガス灯の灯火がいかに美しくそして、明るかったのかがわかります。

さてここで、少し早めのお昼をとることにしました。
chocolatといえば、<食>な訳ですが(笑)今回はもちろん、横浜の歴史にちなんだお店をチョイスしましたよ〜
向かったのは、横浜が発祥と言われている牛鍋のお店<荒井屋 本店>です。

牛鍋が生まれたのは、文明開化とさわがれた明治時代のこと。外国人居留地(現在の山手周辺)の近くには、外国人の真似をして牛肉を食べさせるお店が登場しました。はじめは串にさした牛肉を焼くだけだったそうですが、後に日本人の口に合うように考え出され、牛鍋になりました。「すき焼き」の元祖とも言われています。
ここ、荒井屋は、1895年創業の老舗。

「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と言われていたそうです。私も早速、文明開化の味がする(であろう)牛鍋をいただきました。
お昼はなんと、900円で牛鍋定食が食べられます。

甘辛いタレの味は絶品。ご飯がすすむーーーーーー

次回はぜひ、予約をして個室で牛鍋を贅沢に食べてみたーいと思いました。

お腹がいっぱいになったところで、少し海側に出て横浜タイムスリップを楽しんできました。
<横浜三塔>と呼ばれている歴史的な建造物があるのをご存知ですか?
横浜三塔とは、キング・クイーン・ジャックと呼ばれる、3つの塔を指した言葉です。
キングは県庁舎の塔、クイーンは税関、ジャックは開港記念会館の塔です。 いずれも関内地域の海寄りに位置しており、名前の由来については、外国人船員達がそれぞれをトランプのカードになぞらえて命名したとの説が有力です。

まず最初に見えてきたのは、ジャックの塔を持つ開港記念会館です。元々横浜町会所があった場所でした。しかし、1906年(明治39年)、火事によって町会所は焼失し、その後、1917年(大正6年)に開港50周年を記念して建設されました。

建物は、関東大震災で一部が消失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ、創建時の姿に復元されました。レンガが華やかな雰囲気のする建物ですね。

そして次は、そしてジャックから11年後に建設されたキングと呼ばれる神奈川県庁舎です。

3代目の庁舎が関東大震災で焼失したため、大正15年に行われたコンペ(公募)によりデザインされました。昭和初期に流行した、帝冠様式(鉄筋コンクリート造の洋風建築に和風の瓦屋根を載せたデザイン)の先駆けと言われています。「キング」と呼ばれるにふさわしい、重厚なたたずまいですね。

キングから更に6年後、クイーンと呼ばれる横浜税関が建設されました。

クイーンという名称がぴったりな、優美な姿をしており、ロマネスク様式を取り入れた緑青色のドームが印象的な建築物です。
安政6年、開港とともに横浜税関の前進である「神奈川運上所(後に横浜運上所と改称)」として開設され、明治5年に「税関」と改称されました。

大正12年の関東大震災で2代目庁舎が倒壊し、平屋のバラックで仕事が行われていたそうですが、昭和7年、失業者救済を兼ねて、3代目となる現庁舎の建築が計画されました。当時の高層建築といえば、キング(神奈川県庁49m)とジャック(横浜開港記念会館36m)でした。設計段階では塔の高さが47mだったのですが、第22代税関長だった金子隆三の「日本の表玄関たる横浜港の税関庁舎とするなら、横浜で最も高くすべき」との一言で、高さ51mの横浜税関が誕生したのだそうです。


実はこの横浜三塔をめぐると、願いがかなうと言われているそうです!!!
私は、偶然にも、昨年の七福神巡りに続き、新年早々縁起のよい場所を訪れたことになりますね♪

横浜三塔からすぐ近くに<横浜開港資料館>があります。

横浜の歴史について、最も多くの資料を備えている施設がこの横浜開港資料館です。日本大通り沿いに位置し、その目的は横浜の開港期を中心とする歴史に関する資料の収集・保存・研究などを行い、その内容を広く公開する事にあります。
開港記念日にあたる1981年(昭和56年)6月2日、かつて日米和親条約が締結された場所に設立されました。元は1931年(昭和6年)に建てられた、旧英国領事館だった建物です。

現在の資料館の中庭には、大きなタブノキがあり、通称<たまくす>と呼ばれています。

たまくすは、横浜の歴史を見てきた有名な木なんです。

1853年、嘉永6年6月、マシュー・C・ペリー提督が米国艦隊4隻を率い、フィルモア大統領国書を持って浦賀にやってきました。そして、江戸の幕府に開港を強く迫ったのです。これが世にいう「黒船来航」です。
日米和親条約締結の地が、当時小さな農漁村の横浜の、現在のこの開港資料館あたりでした。
「たまくす」は、ペリーが横浜村に上陸した時に、その歴史の動きを傍観していたといえます。
ペリー艦隊の随行画家ウィリアム・ハイネの「横浜上陸」や「水神の祠」などに背景として、たまくすが描かれています

1866(慶応2)年の大火で「たまくす」は樹形が変わるほど焼失したものの生きながらえ、さらに1923年の関東大震災では樹木は消滅したが、その根から芽を吹き、生命は絶えることはありませんでした。

日米和親条約が結ばれたのは、この開港資料館横にある<開港広場>と呼ばれる場所です。

条約の調印が行われる際、アメリカ側からは日本に対して多数の贈呈物があったそうですが、その中でも日本人を特に驚かせたのは、電信機と蒸気機関車の模型だったそうです。
2つともそれまでの日本には存在しなかったものであり、人々が目をみはるのも当然の事だったでしょう。現在、開港広場には地球儀の形をした、日米和親条約調印の石碑がたたずんでいます。

 

             


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